瓶底先生 19

 

 

 

 

 

その日は朝から雨が降っていた。

天気予報では降ったり止んだりの一日で、夜半には大雨になるらしい。

昼前や夕方には暫く止んでいたようだけど、暗くなってからは雨音が強くなってきたようだ。

作業を中断して、窓から外を眺めた。

「よく降るな・・・。」

園庭には沢山の水溜りが出来ている。

ぼんやり眺めながら、瓶底のことを思った。

雨で濡れはしなかっただろか。

今何をしているだろう。

ぼんやりしてるとつい瓶底のことを考えてしまう。

最近はずっとこうだ。

そんな自分に苦笑して、作業に戻った。

 

 

 

 

 

目を見れなくなってしまった。

顔を合わせて喋っていても、つい目を逸らせてしまう。

目を見て喋ってたら、首の辺りが熱くなって、背中に嫌な汗を掻いてしまう。

後ろめたさもあるんだと思う。

忘れようとしてもあの夢のことが頭に残って、瓶底の顔を見てたら思い出してしまって。

職場では話し込むことはそうないから、どうにかやれてる・・・と思う。

そんなに変な態度にはなってないはずだ。

でも、二人きりで会うとなると話しは別だ。

今までと同じ態度でいられる自信がなかった。

意識しまくって、きっと瓶底に嫌な思いをさせてしまう。

当分ピアノ教室なんて無理だ。

一つの部屋で二人きりなんて耐えられない。

もう少し時間をおいて、自分の想いを落ち着かせて、また友人として笑い合えるようにしなければならない。

そうしなければ、今までのような関係は続けていけないのだから。

オレさえ頑張れば。

オレさえ気持ちを押し込めれば。

きっとまた、今までと同じ付き合いが出来るようになるはず。

オレが瓶底を好きになったりしなければ・・・気付かなければ・・・。

こんなことにはならなかったのに。

それでも、好きになってしまったのだから。

気付いてしまったのだから。

今更そんなことを言っても何も解決しない。

ピアノ教室は当分休みにしてくれと頼んだ。

理由は例の友人。

落ち込んでいるから休みの度に会うことにしたと嘘を吐いた。

また嘘を重ねてしまった。

「ごめんな・・・。」

「気にしないで。また落ち着いたらピアノやりましょ。お友達、大切にして下さい。」

瓶底は笑ってそう言ってくれたけど、寂しそうな笑顔だった。

そんな顔をさせたいわけじゃないのに。

瓶底の笑顔が好きだから、ずっと笑っていて欲しいのに。

自分がこんな悲しそうな顔をさせてしまっている。

罪悪感と自己嫌悪で胸が痛む。

苦しくて切なくて胸が痛む。

瓶底のことが好きで好きで、胸が痛む。

この想いが落ち着くまで、一体どれくらい時間が掛かるのだろう。

気持ちを抑え込んで、前みたいに友達として付き合える日は本当に来るんだろうか。

イライラする。

気持ちを抑えることなんて簡単なことだと思っていたのに、上手く出来ない。

感情がコントロール出来ない自分にハラが立つ。

自然と笑うことが減った。

面白いことがあっても心の底から笑えない。

溜息も増えた気がする。

ほんの少し前まではあんなに毎日が楽しかったのに・・・。

今は毎日が苦しい。

胸に棘があって、それがチクチクと痛む。

紅先生やアンコ先生にも「最近暗い」と心配させてしまった。

果てはナルトにまで「イルカ先生元気ない?」なんて言われた。

こんな小さい子にまで悟られるなんて・・・自分が情けない。

瓶底とは少し気まずくなってしまった。

それもオレの所為。

ある朝、出勤途中で出くわして少し話した。

「イルカ先生、最近元気ないけど大丈夫ですか?」

「うん・・・ちょっと悩み事。」

「・・・お友達のこと?」

「まぁそんなとこ。」

また嘘を重ねて自己嫌悪に陥る。

「ほんとに?顔赤い気がするけど・・・熱でもあるんじゃ?」

そう言って額に触ろうと伸ばされた手から逃れようと、不自然に距離を取ってしまった。

瓶底は傷付いた顔をした。・・・気がする。

視線を逸らせてしまったから、はっきりとは分からない。

「・・・ごめん。大丈夫だから・・・ありがとう。」

それから気まずくなってしまった。

前に比べて話しかけられる回数が減ったと思う。

自分からなんて話し掛けられなくて、自然と二人きりで話すことを避けるようになってしまった。

全部オレが悪い。

最近では逃げ出したいと思うようになってきた。

逃げたら楽になれるんじゃないか、なんて・・・。

苦しくてどうしようもなかった。

恋がこんなにも苦しいものだなんて知らなかった。

 

 

 

 

 

あれからどのくらい経っただろう。

もうすっかり寒くなって、季節は冬だ。

瓶底とまともに話していたのが、遠い日のように思える。

職場以外で瓶底に会うことはなかった。

瓶底は何度か誘ってくれたけど、全部断った。

最近では瓶底ももう誘わなくなった。

それがホッとする反面、寂しく思うことがある。

何て自分勝手な人間なんだろう。

「もう嫌われちゃったかな・・・。」

あの楽しかった時にはもう戻れないんだと、最近よく思う。

きっとこのまま、職場で言葉を交わすだけの関係になっていくんだろう。

一つ溜息を吐いた。

ふと時計を見ると、もう20時を過ぎていた。

「・・・そろそろ帰るか。」

今日は一人居残って仕事をしていた。

考え事をしながらだったから、こんな時間になっているのにやっと気付いた。

明日は土曜で仕事は休みだから、どんなに遅くなっても問題はなかったけど。

一人で家に居るより、仕事でもしてた方が気が紛れるんじゃないかと思っていたけど、結局何をしてても瓶底のことを考えてしまうのは一緒だった。

帰り支度をして外に出ると、大粒の雨が降っていた。

今日は一日中天気が悪く、降ったり止んだりだった。

夜になって雨脚が強まったらしい。

雨が沈んだ気分に追い討ちをかける。

「あ〜ぁ。最近笑ってねぇ・・・よなぁ・・・。」

溜息を吐きながら園を後にした。

傘に当たる雨音がうるさい。

これから大雨になりそうだ。

オレは足に水が撥ね返るのも構わず、小走りで家へと急いだ。

辺りは暗く、人気は全く無かった。

皆、雨で家の中に篭っているのだろう。

瓶底は濡れなかっただろうか。

今何をしているんだろうか。

走りながら考えることは、やっぱり瓶底のことだった。

そんな自分に苦笑いが浮かぶ。

「・・・やっぱり・・・好きだなぁ。」

あの楽しく付き合えてた頃に戻りたい。

瓶底もそう思ってくれているだろうか。

今の状態を憂いているだろうか。

マンションの傍まで来た時、駐輪場に見知った自転車が置いてあるのが見えた。

瓶底の自転車だ。

心臓が跳ねる。

遠くから辺りを見回してみたけれど、持ち主の姿は見当たらない。

部屋の前で待っているのかもしれない。

そう思ったけれど、部屋の前にも姿はなかった。

こんな雨の中、一体どこに行ったのか。

心配になって近所を探しに出たら、あっさりと簡単に瓶底は見付かった。

マンションの裏にある公園のブランコに座っていた。

傘も差さずにずぶ濡れで、ブランコを少し揺らして項垂れてる。

「な、に・・・やってんだ!」

駆け寄って傘に入れて顔を覗き込むと、瓶底はふわりと小さな笑みを浮かべた。

「イルカ先生・・・。」

オレを呼ぶ声に力はなく、一度呼んだ後、涙を流し始めた。

「こんなに濡れて・・・風邪引いたらどうすんだ!ほら、部屋入るぞ!」

泣いてる理由は後で聞くとして、こんな所で雨に打たれっぱなしじゃ絶対風邪を引く。

部屋に入ろうと瓶底の腕を引っ張ったけど、逆に手首を引っ張られて止められた。

「イルカ先生・・・オレ、悪い所は直すから・・・ダメな所も頑張って直すから・・・。」

瓶底は声を震わせながら訴えた。

「イルカ先生が嫌な所は全部直すから・・・。だか、ら・・・前・・・みたいに・・・。」

オレの手に縋って泣く。

前みたいに付き合って欲しいと泣く。

オレだって出来るものならそうしたい。

けど、それはもう無理な話なのだ。

瓶底が悪いんじゃない。

オレが悪い。何もかも。

「ごめん、な・・・瓶底は何も悪くない。オレが・・・ごめんな。とにかく、頼むから立ってくれ。こんな所じゃ風邪引くから・・・な?」

宥めるように言っても瓶底は動かない。

オレに触れる瓶底の手は冷え切っていて、少し震えていた。

どれだけの時間ここで待っていたのか。

「こないだの・・・お休みの、オレが電話した時・・・お友達と会いました?」

「え?あぁ、あれから出掛けて会いに行った、よ・・・。」

「・・・嘘・・・ですよね?・・・オレ、あの時ここにいたんです。どうしても・・・イルカ先生と話したくて、ほんの少しでもいいからって・・・。」

ごめんなさい、と瓶底は謝った。

オレが家にいるなら押し掛けるつもりで、出掛けるなら駅までの少しだけでも話したかったのだと言った。

眠れなかったから朝からここに来て、オレを待っていたのだそうだ。

オレは一日篭っていたから、結局会えなかった。

出掛けると嘘を吐かれたもんだから、押し掛ける勇気は持てなかった。

気持ち悪いことしてごめんなさい、とまた謝る。

何も言えなかった。

瓶底を責めることなんて出来ない。

そこまで追い詰めたのは、間違いなくオレなのだから。

「ダメな所は直すから・・・イルカ先生が嫌なことはしないから・・・だから・・・。」

―――捨てないで。

オレは何てことをしてしまったのだろう。

もっと幸せにならなきゃいけないと手を引っ張ったのに、自分勝手にその手を振りほどいてしまった。

自分が辛くなったから、瓶底といるのが苦しくなったから、身勝手に瓶底を捨てようとした。

もう誤魔化せない。

これ以上嘘で誤魔化しても、きっと瓶底は納得しない。

嘘を重ねて瓶底を傷付けるのも、もう嫌だ。

「ごめん・・・。ごめん、な・・・。」

他に何も言えなくて、謝るしか出来なかった。

瓶底の手から力が抜けて、オレの手を滑り落ちた。

項垂れたまま肩を震わせる。

嗚咽が雨音の隙間から耳に届いた。

こんなに泣かせて・・・オレは何をやってるんだ。

瓶底に笑っていて欲しいと、幸せになって欲しいと思っていたはずなのに。

屈み込んで瓶底と視線の位置を合わせる。

メガネを外したら、あのキレイな瞳がオレを見ていた。

今日はコンタクトはしていないようだ。

泣いた所為で目が赤かったけど、やっぱりキレイな色をしてる。

そういや瓶底の泣き顔を見るのは随分久し振りな気がする。

親しくなって最初の頃は、何かある毎に子供みたいによく泣いてた。

一緒に感動する映画なんて見てたら、こっちの涙が引っ込むくらいの勢いで泣いてたし。

その時を思い出したら少し笑えた。

あの時の瓶底は可愛かったな、なんて場違いなことを思った。

暫く見てなかった泣き顔はキレイだったけど、やっぱり笑顔が好きだ。

笑ってる瓶底が一番好きだ。

もういいや、と思った。

もう笑顔は向けて貰えないかもしれないけど、嫌われるかもしれないけど、嘘を重ねて瓶底を泣かせるよりはいいと思った。

これ以上傷付けて泣かせるより、嫌われる方がずっといい。

本当のことを全部話すしかない。

涙を軽く拭ってやって・・・。

それから、冷たい頬を手で包んで、キスをした。

「ごめん。こういうことだから・・・ごめんな・・・。」

瓶底はブランコから滑り落ちた。

余程驚いたようで、ぽかんと口を開けてじっとオレを見ていた。

何が起こったのか、まだ理解出来ていないのかもしれない。

立ち上がらせようと手を引っ張ったら、強い力で握り締められる。

オレをじっと見て、ボソリと何か言った。

声は雨音に消されたけど、唇でオレの名を呼んだから。

名を呼んだ後も何か囁いて、潤んだ瞳でじっとオレを見るから。

もう一度キスをした。

それから、長い間キスをしていた。

雨が降る中、傘に隠れて、冷たい瓶底の唇が温かくなるまで。

雨音が酷くうるさかった。

 

 

 

 

 

 →20

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瓶底めっちゃ久々ですんませんです。
年内には終わらせられそう・・・かな!
あともう一息だっ。
次で終われたら20でキリいいんだけどなぁ♪
ご覧頂きありがとうございました〜!

'10/9/9 葉月

 

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